人口約300人の村 愛媛県内子町石畳石畳の見どころこの石畳にも、遠い古に生きた人々の息吹を感じられる
歴史がしっかり守られ、残っています。

石畳地図

古橋地区Furuhashi Area

01黒山城址
黒山城址-落ちなかった城-

今から約800年前、平家が築いた愛媛大洲喜多地方で最も古い城と伝わります。南北朝時代には雲州久保郷に生まれた「久保伊予守源高実」が長慶天皇に長く仕えて軍功をたてこの城に就封し、以後、城主は12代続きました。12代好武の時には、長宗我部や豊臣秀吉の軍に度々攻められましたが、落城しませんでした。

02隠れキリシタン地蔵
隠れキリシタン地蔵-石畳にもキリシタンがいた-

県道の道端と鳥越街道の2か所にお地蔵様があり、その着装する袈裟の結び目が「十字」になっています。天草を追われた隠れキリシタンの人達が残したと伝わります。
キリシタンは「お大師様」の縁日に仏教信仰として密かにお祈りしていたのかもしれません。

03下の宮橋
下の宮橋-もう一つの屋根付き橋-

石畳には弓削神社ともう一つ屋根のついた、この下の宮橋があります。橋銘は、以前近くにあった「下の宮神社」の名から付けられました。
橋の袂には大きな桜があり、春には小川のせせらぎにも囲まれて、穏やかな時間を過ごすことができます。

小狭地区Kohaza Area

04祇園社
祇園社-信仰熱き社-

主祭神「祇園牛頭天王」から疫病除け厄除けのご利益をいただけます。この神社には三つの社紋【八角折敷に三、右三ツ巴、四ツ目菱】が柱にあり、【一之宮を大事にし、吉祥を待ち、団結する心】といった住民の信仰と心を表しているようです。
一方、それぞれの紋は、石畳に所縁のあった武将の家紋を表したとの説もあります。正面には「因幡の白うさぎ」の彫刻もあり、縁結びのご利益があります。

05石畳尋常小学校跡
石畳尋常小学校跡-子供達を育んだところ-

昔は山腹の日当たり良い場所に住居があり、当時の人々は山の稜線沿いの道を往来しました。子供達もその道を歩いて学校に通ったのです。
明治5年、明光寺で始まった「憲民小学校」を経て、明治29年には石畳地区を東西に分けた中央、祇園社に行く途中に「石畳簡易小学校」として移転。明治41年「石畳尋常小学校」と改称後、昭和13年、現在の「石畳小学校」に移転し、現在は畑として残ります。

06久保替え地
久保替え地-最後の黒山城主が住んだところ-

黒山城主12代の久保好武は、秀吉の軍に攻められても降参せず、蟄居の命を受けても従いませんでした。しかし伊予の新たな領主となった小早川隆景から4度目の要請でついに城を開け、この地に移り住みました。
住居の配置は、久保家一族と腰元の12人が住む家を中心に、家老一家8人、家臣らの家がこれを囲む出丸のような陣形で、現在でもその名残の跡地を見ることができます。

東地区HIgashi Area

07雨山城址
雨山城址-河野氏築城の城-

承久3年(1221)に始まる城で、高縄城(松山市北条・高縄山)主河野通信の義弟、河野宗賢(出雲坊宗賢、または城戸宗賢)が築いたと伝わります。後に黒山城主久保伊予守源高実の要塞を経て戦国時代には来島氏の子孫、城戸宇京太夫通成が居城。土佐の長宗我部勢が城を囲み10数日間の激戦によく耐えました。城兵は兵糧攻め、特にのどの渇きに苦しみましたが、幸運にも恵みの雨が降って城は救われ、土佐勢は引き上げました。以後、天山城は雨山城に改名されました。

08久保でん屋敷跡
久保でん屋敷跡-栄華を極めた庄屋さん-

元禄年間(1690~1700)石畳に住んだ黒山城主子孫の久保九兵衛が豪族久保殿の初代。その5代目長太郎、6代目伝四郎春房は、年末の大洲城下で「久保伝四郎金貸し」と立て札し、村々の庄屋にお金を貸す大洲藩きっての大金持ちで藩主にも謁見できる身分でした。
その生活は、毎日高岸村(現伊予市双海町)から魚を取り寄せ、庭園の池には船を浮かべて三味線、浄瑠璃を楽しみ、「東の空にカラスの鳴かない日はあっても、久保殿に三味線の音が鳴らない日はない」と伝わります。
屋敷跡には富士山を模した石垣が残り、屋敷の戸を開ければ富士山、そして平山観音堂から持ち帰ったしだれ桜も眺めていたことでしょう。

09柱状節理
柱状節理-日本列島が亜熱帯の頃の地層-

弓削神社から牛の峯林道に入り、しばらく進むと突然現れる柱状節理。厚い溶岩流や貫入岩で見られる多角柱状の割れ目(節理)を柱状節理といいます。玄武岩質や安山岩質のマグマが、冷却によって体積が小さくなる時にできるもので、おもに六角形状の角柱になり、愛媛県では珍しい地層です。
形成時代は、「新生代 新第三紀 中新世 後期ランギアン期〜トートニアン期」という1,040万年前~1,630万年前になり、この頃の日本列島は亜熱帯気候。本州中部はマングローブ林でした。類人猿がいた頃に生成された地球に触れてみてください。

10弓削神社
弓削神社-織姫さまもお祭りする社-

創建は應永3年(1396)室町時代。河野宗賢が承久3年(1221)天山城(雨山城)を築き、 河野氏がこの地を離れる際、城の南に当たる東の地に弓削神社を創建。境内には椎の巨木が茂り、豊かな涌き水で東地区水田の大半を潤しています。神社建立の際、当時神社仏閣に見られた要塞の作りとして、神社を城に見立てて池を堀としたのか中央には太鼓橋。とても珍しい造りです。 天照皇大神、天日鷲主命・三女命、そして織姫さまこと瀬織津姫命等がお祀りされています。毎年4月29日にはお神楽があり、6月上旬の菖蒲園は見事です。
ご利益は多々あり、最強の神社です。(国土安泰、開運、勝運、福徳、紡績業・製紙業繁栄、営業・商売繁栄、海上・交通安全、縁結び、恋愛成就、子宝、夫婦円満、家内安全、芸能・芸術、女性守護、浄化・祓い全般など)

11しだれ桜
しだれ桜-樹齢350年を超えてもなお、美しい-

麓地区の平山観音堂から持ち帰って植えた桜で、樹齢350年以上と伝わります。久保でん屋敷跡に住んでいた黒山城主子孫の久保氏が、春になれば屋敷から美しく咲き誇る桜を仰ぎ見て宴を楽しめるよう、植えたのではないでしょうか。
現代でもその咲き誇る姿は、訪れる人々の心を魅了しています。4月上旬には「桜まつり」が開催されます。(愛媛県天然記念物)

12かわじの湧き水
かわじの湧き水

愛媛の名水100選のひとつ。水温はいつの季節も14℃で絶えることはありません。江戸時代の頃には、この湧き水を使って久保家が藍染めをしていました。ここから見る棚田や連なる山の風景は格別です。
水路近くには石畳八十八ヵ所のお地蔵様。寝観音のお地蔵様が「休んで行きなさいよ」と語りかけているようです。

13そば処 石畳むら
そば処 石畳むら-石畳の食文化-

石畳で栽培した蕎麦を石臼で挽き、打ち立て、湯がきたての蕎麦を召し上がってください。
客席からは、樹齢350年以上のしだれ桜(春)やそばの花(秋)が眺められます。蕎麦打ち体験もできます。4月「さくら祭り」そして11月「新そばまつり」では、多くのお客様でにぎわいます。
緑豊かな山間部で、爽やかな風とお日様を浴びながらのお蕎麦は最高です。遠路遥々来られるリピータの方の定番は、食感抜群、衣パリパリの玉ねぎかき揚げ。癖になります。

岡の成地区Okanonaru Area

14牛の峯地蔵尊
牛の峯地蔵尊-お参りすると命助かる-

標高896mの牛の峯。その稜線を西へ少し行ったところに「延命地蔵菩薩」を祀るお堂があり、大きな事故に遭っても命が助かる有難い菩薩様です。4月24日、8月24日が縁日で、昔は多くの人々が登山道に列を連ねてお参りし、若者のお見合いも開催されるなど大変賑やかでした。平成12年(2000年)には石畳と双海町上灘の林道が開通。天気の良い日には遠く四国山地、松山空港や瀬戸内海の島々、広島を一望でき、風を操るパラグライダー愛好家の集う場所にもなっています。

15石雲山明光寺
石雲山明光寺-臨済宗東福寺派-

臨済宗東福寺派に属し、石畳地区の菩提寺です。本尊は「釈迦牟尼如来」で「地蔵菩薩」と「観音菩薩」も祀られています。
寿永3年(1184)の頃、河野四郎通信が、義理の弟六郎宗賢(出雲坊宗賢、または城戸宗賢)と共に天山(雨山)城を築き、その西「小蒔」に宝泉寺を創建したのが明光寺の始まりと伝わります。
後に黒山城主久保伊予守源高実の頃、そして久保縫殿助好武の頃と場所を移転し、「石雲山明光寺」として現在に至ります。

16宝泉寺観音
宝泉寺観音-隠れキリシタン遺構-

明光寺の始まりであった宝泉寺を、明徳元年(1393)に黒山城主久保伊予守源高実が黒山城と天山(雨山)城の中間である現在の地に移して「宝泉寺」を開山しました。後に久保縫殿助好武が再移転し「石雲山明光寺」を創建しましたが、元の宝泉寺跡に小さなお堂を築き、観音様を祀りました。
この観音様は昭和初期になって隠れキリシタンの残したマリア観音と言われるようになり、その色彩鮮やかな着衣やたたずまいにはうなずくものがあります。

17清流園
清流園-「むらおこし」事業の原点-

肱川水系麓川の支流である通称清水川にあり、標高896mの牛の峰山麓から流れ出る清水はとても豊富です。水車は、山村で見られる科学の粋。わずかな水の流れを利用した天然のエネルギーで、この石畳地区でもその昔、精米、製粉、そして製材まで活用されていましたが、それは電気に代わっていきました。それから40数年、熱で変質しない美味しい米の食べ方、そして農村の風景を再現しようと、若者衆12人と土地の提供者、記憶を辿りながら制作にあたった大工さん、みんなの熱い思いにより水車が復元されました。この水車は、石畳の住民と地域にとって農村文化のシンボルになっています。

18石畳の宿
石畳の宿-古民家で過ごす時間をどうぞ-

古い民家を移築した宿泊施設で、日本家屋の美意識がそっくり残ります。1階は、宿泊者の共用スペース。2階は、屋根裏を改修した3つの客室で、ちょっとした隠れ部屋みたいな造りです。
食事は、地元主婦の皆さんが育て、用意された旬の野菜の煮物や山菜の天ぷら。そして、近くの水車小屋で精米した「水車米」。打ちたての蕎麦もあり、地元の素材をふんだんに使った田舎料理です。水車米は、市販のお米と違い、その美味しさに笑顔がこぼれます。
宿の隣には古民家カフェ[ひぬるわ]があります(営業不定期)。

19囲炉裏カフェ ひぬるわ
囲炉裏カフェ ひぬるわ-日当たりの良い縁側でお茶しませんか-

 ★★★ ただ今、休業中です ★★★

内子町石畳にある隠れ家的古民家カフェです。[ひぬるわ]とは、日当たりの良い縁側という意味です。

毎週土曜日は「石畳のパン屋」、日曜日には「カフェ」が営業(11時~16時)しています。石畳産の自家栽培・無農薬の小麦を使ったパン、そして栗を使ったロールケーキとコーヒーなど、メニューも豊富です。
四季折々のどかな里山の風景を眺めつつ、ゆったりとした時間を過ごしてみませんか。

麓地区Fumoto Area

20平山観音堂
平山観音堂-黒山城主の夢で建立-

正平年間(約650年前)の頃、黒山城主の夢にお告げがあり、石塚をつくり観世音菩薩を祀ったのが始まりです。後に「以輪与]婆さんが都から菩薩像を持ち帰りお堂を建て、阿弥陀如来と33体の観世音菩薩を合祀しました。大正3年(1914)、お堂改築の時、長さ4m、一辺40cmの角材のような石柱で、重さ1.5tほどの写真に見る踏み石が2.5km離れた場所から運び込まれました。力自慢が集まり川を渡り、山坂を大変な苦労で運び、担ぎ上げましたが、後2割の距離で全員ダウン。そこで、酒五升樽一本(五升:9リットル、樽一本:18リットル)を飲み干して再開したら、無事お堂まで運べたそうです。約350年前、ここに咲いていた桜の一部を持ち帰って今に残るのが、東のしだれ桜です。8月17日には盆踊りが開催されています。

21河内社
河内社-総鎮守の守-

約400年前の天正年間(1580)の創建と伝わります。猿田彦命、高彦根命、そして織姫さまこと瀬織津姫をお祀りしています。江戸時代の頃は麓地区(麓村)総鎮守の守として崇拝されていました。今でもお神楽が奉納され、信仰厚い人々によって大切に守られています。
ご利益は、開運、芸能・芸術、女性守護、浄化・祓い全般です。

22鎮守の森
鎮守の森-約300年前から残る原生林-

樹齢300年以上前のケヤキ、ウラジロガシ。ともに樹高が20mを超える巨木が残る、15アールの原生林です。ここには日ノ山石鎚権現社をまつり、天明の中期(1785)頃から、この森は信仰の熱い住民によって大切に守られています。
ケヤキ、ウラジロガシの他には、カツラ、コムラサキ、カエデ、カヤ、ヤブツバキ、シロダモ、ナラ、カシ、モガシ、ソヨゴ、エゾヒバなどの種類があります。

落合地区Ochiai Area

23落合街
落合街-石畳の中心地-

大清水川、下地野尾川が合流して、さらに麓川が合流した地点。江戸時代には既に落合と呼ばれ、明治の頃には宿2軒、水車製粉、芝居小屋、日用品販売の商家数件で賑わい、大正12年(1923)には郵便局、小学校、農協もできました。昭和中期には、鍛冶屋、精米製粉場、飲食店、理容室、パチンコ店もあり、さらに賑わいました。
現在は空き家が目立ちますが、かつての賑わいを取り戻そうと、ゲストハウスや飲食店開業の検討が進められています。

24滝の花大師堂
滝の花大師堂-隠れキリシタン遺構-

天保6年(1835)以前に創建されたお堂で、内子町指定有形文化財です。「隠れキリシタン」が残したと伝わるお大師様の座像が祀られています。
4月と8月の21日には明光寺住職による大般若講が続けられ、祀られるお大師様はこの日ばかりは住民の集まる集会所に出向かれて供養を受けられています。

アクセスAccess

JR・タクシーでお越しの方

  • 松山駅~内子駅 特急で25分
  • 内子駅~石畳の宿 約25分 料金約3,000円(片道)

自動車でお越しの方

  • 松山IC~内子・五十崎IC 約30分
  • 内子・五十崎ICから石畳の宿へ 約25分
  • 弓削神社へ 約30分
  • 石畳清流園(水車)へ 約25分

石畳がより良い場所になるよう、
移住を検討している方や石畳の活動・取り組みに協力をいただける企業・団体、
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